Searching for the Young Soul Rebels

音楽、映画の話題を中心に、自身が経験した病や離婚について、はたまた離れて暮らす息子のことなど、徒然なるままに書いていきます。

本当の「絶望」から陳腐な「希望」へ

映画『ヒミズ』を見た。

園子音作品の常連がキャストを固めた脇役陣はもちろん、主演のふたり(染谷将太二階堂ふみ)の演技は圧巻。これまでの園作品と比べても、エロ・グロは少ないので万人に受け入れられやすいのではないか。と、思って某サイトのレビューを見たら、けっこう賛否両論なのね。詳しいストーリーは公式サイト等に譲るとして、今回は希望と絶望の話をしたいと思う。

 

かつて村上龍は「日本に希望がないのは絶望がないからだ」という旨のことを書いた。「なぜなら希望とは絶望的な状況でこそ必要になるものだからだ」と。たしか2000年くらいのことか。『希望の国のエクソダス』『共生虫』あたりの頃だ。まだアメリカ同時多発テロ事件の前のことだったと思う。うん、今にしてみれば幸福な時代だったのかもしれない。絶望に酔える最後の時代。そして映画の原作となった古谷実による『ヒミズ』は、2001年~2003年にかけて連載されていたマンガだ。アメリカ同時多発テロ事件を経て、ここ日本でも少しずつ絶望にみんなが気付き始めた頃かもしれない。

原作『ヒミズ』は、古谷実ファンとしては決して他人にすすめられるような類のマンガではなかった。とにかく救いがない。気持ち悪くなるくらい救いがない。原作のラストシーンでは、希望を想像してこれからそれを創造できるかもしれない状況を描いたあと、「やっぱりダメなのか?」という主人公・住田のつぶやきと、銃声によって終わっている。うん、解釈の隙間はたくさんあるんだけど、まぁ普通に考えれば、自殺して終わったと捉えるものだろう。事実、僕もずっとそうやって思っていたし、そういう終わりこそが相応しいとも思っていた。「みんなもっと絶望を知るべきだ」なんて考えていたかもしれない。でも、今回僕は映画を見ている間ずっと、住田に死なないでほしいと思っていた。そんな絶望のままで終わらせないでほしいと思っていた。それはなぜだろう。

 

 3.11の震災後、村上龍はこう書いている。「全てを失った日本が得たものは、希望だ」。つまり、今日本は、日本人は、真に絶望していると言える。ついに絶望した。たくさんの人の命や、お金や、物をなくして、僕らはやっとそのことに気が付いた。

あるいは、しりあがり寿は『ジャカランダ 新装版』の帯に次のように記している。「未来がない、夢がない、と失われた欠乏に憧れ、倦んだ日常を送っていたのはもう昔。今は徐々にではあるけどボクたちにたりないもの、手にいれないといけない欠乏がくっきりと姿を現しつつある」。

ゴーイング・ゼロ。なんて歌えたのはいつだったっけ。ずいぶん牧歌的な時代だったんだな。そう、僕は猛烈に希望を欲している。このブログタイトル。「Searching for the Young Soul Revels」=「若き魂の反逆者を探して」は、僕なりに希望を見つけていこうと思ってつけたタイトルだ。もちろん元ネタはDexys Midnaight Runnersのファーストアルバムだけど。

映画『ヒミズ』のラストはマンガとは違っている。厳密にいえば園監督の解釈が入っている。エンディングで銃声が響いたが、住田は生きていた。住田を殺さなかった。自殺なんかしていなかった。死なせてくれなかった。ひょっとしたら1年前なら殺していたかもしれない。でも、もうそれは時代遅れの表現だ。今は希望を描きたかったんだろう。「がんばれ!がんばれ住田!」という最後の絶叫と、顔をくしゃくしゃにして走る姿は、陳腐でベタでそっちこそ時代遅れな気がするかもしれない。でも僕にはまったくそう聞こえなかった。希望だ。と素直に思えた。

 

個人的な話になるが、この数年、僕自身もとても辛い経験をした。絶望を知った。病気になり、働けなくなり、離婚をし、息子と離れて暮らし、生ける屍と化していた。 いつ死んでもいいと思っていた。3.11。ぐらぐら揺れるなかで、しかし僕は「死にたくない」と思って逃げた。なんでだろう。この1年近くずっと考えていた。

映画のスクリーンから「がんばれ!」という絶叫が響く。その陳腐な言葉が色々な人の声で脳内再生されていた。直接言われなくても、そう思ってくれた人が僕にはいた。そのことを改めて思い出していた。陳腐でも希望を携えた言葉・思いが僕を生かす。住田と一緒にこれからの世界を生きてみたい。

 

Dexys Midnaight Runners『Searching for the Young Soul Revelsf:id:minnadefujirock:20120201232505j:plain