Searching for the Young Soul Rebels

音楽、映画の話題を中心に、自身が経験した病や離婚について、はたまた離れて暮らす息子のことなど、徒然なるままに書いていきます。

僕が親権をあきらめたワケ -1-

離婚をするにあたって一番もめること。

お金の話に並んで多いのは子供の親権問題である。子供に愛着のある両親(というか普通そうだ)であればあるほど、これはとても難儀な問題である。子供のために離婚を踏みとどまれよ!と思う人もいるだろうけど、こればかりは離婚経験者にしかわからない複雑な事情がある。僕だって踏みとどまれるならそうしたかったし、離婚問題が勃発してから数年間、何度もやり直そうと頑張った。でも、ダメなものはダメなんだな。もちろん、子供の複雑な顔を見れば、今でも「これでよかったのかな?」って思うこともある。でも、しかたなかったと思うしかない。やっぱり前に進んでいかないといけないし。

で、僕の場合もとても大変だった。正直、元妻に親権を渡したくなかったし、子どもも手元に置いて育てたかった。幸いにも当時3歳の子供は僕にもとてもなついていた。だから余計に僕の子どもに対する愛情は強く、母親代わりを僕の親と祖母に頼み、時短で働きながら子育てしていく人生もありだな、と。会社の上司にもその可能性があることを告げ、業務の調整をしてもらおうとも。

だけど…そんなある日、僕は突然うつ病にかかってしまった。うつ病になった経緯やその治療過程はまたいつか詳しく書こうと思う。病気になり仕事も休職することになり、とても子育てどころではなくなった。むしろ、自分のことで精一杯というか、自分のことさえままならなくなった。その頃はすでに別居(僕=千葉、妻子=長野)していて、体調が悪くて長野まで子供に会いに行くのも命がけになった。電車に乗るとめまいや吐気に襲われるパニック障害も同時にかかってしまったのだ。頓服を飲んで死ぬ思いをしながら長野まで通った。本当に命がけだった。何が僕をそこまでさせていたのか。病気なんだから家で寝ていればいいのに。でも、心のどこかでこの子を渡したくないという思いもあったし、なにより子供の喜ぶ顔が見たかったのだ。僕は精神的にとても不安定だったため、離婚の話し合いは一時中断した。そうやって1年くらい離婚の話は横に置いて、月に数回子供に会いにいっていた。

正直、「自分に子供がいなければもっと楽に離婚できた」と思ったこともある。本当にごめんなさい。でも同時に、たまに見ることができる子供の成長と笑顔が、僕を「生の世界」へ繋いでいたのもまぎれもない事実であった。その頃は、「もう僕は普通の人生は歩めないかもしれない。でもこの子のために自殺だけはしたくない」と思っていた…。

と、長くなりそうなので、何度かにわけて書いていきます。

 

本当の「絶望」から陳腐な「希望」へ

映画『ヒミズ』を見た。

園子音作品の常連がキャストを固めた脇役陣はもちろん、主演のふたり(染谷将太二階堂ふみ)の演技は圧巻。これまでの園作品と比べても、エロ・グロは少ないので万人に受け入れられやすいのではないか。と、思って某サイトのレビューを見たら、けっこう賛否両論なのね。詳しいストーリーは公式サイト等に譲るとして、今回は希望と絶望の話をしたいと思う。

 

かつて村上龍は「日本に希望がないのは絶望がないからだ」という旨のことを書いた。「なぜなら希望とは絶望的な状況でこそ必要になるものだからだ」と。たしか2000年くらいのことか。『希望の国のエクソダス』『共生虫』あたりの頃だ。まだアメリカ同時多発テロ事件の前のことだったと思う。うん、今にしてみれば幸福な時代だったのかもしれない。絶望に酔える最後の時代。そして映画の原作となった古谷実による『ヒミズ』は、2001年~2003年にかけて連載されていたマンガだ。アメリカ同時多発テロ事件を経て、ここ日本でも少しずつ絶望にみんなが気付き始めた頃かもしれない。

原作『ヒミズ』は、古谷実ファンとしては決して他人にすすめられるような類のマンガではなかった。とにかく救いがない。気持ち悪くなるくらい救いがない。原作のラストシーンでは、希望を想像してこれからそれを創造できるかもしれない状況を描いたあと、「やっぱりダメなのか?」という主人公・住田のつぶやきと、銃声によって終わっている。うん、解釈の隙間はたくさんあるんだけど、まぁ普通に考えれば、自殺して終わったと捉えるものだろう。事実、僕もずっとそうやって思っていたし、そういう終わりこそが相応しいとも思っていた。「みんなもっと絶望を知るべきだ」なんて考えていたかもしれない。でも、今回僕は映画を見ている間ずっと、住田に死なないでほしいと思っていた。そんな絶望のままで終わらせないでほしいと思っていた。それはなぜだろう。

 

 3.11の震災後、村上龍はこう書いている。「全てを失った日本が得たものは、希望だ」。つまり、今日本は、日本人は、真に絶望していると言える。ついに絶望した。たくさんの人の命や、お金や、物をなくして、僕らはやっとそのことに気が付いた。

あるいは、しりあがり寿は『ジャカランダ 新装版』の帯に次のように記している。「未来がない、夢がない、と失われた欠乏に憧れ、倦んだ日常を送っていたのはもう昔。今は徐々にではあるけどボクたちにたりないもの、手にいれないといけない欠乏がくっきりと姿を現しつつある」。

ゴーイング・ゼロ。なんて歌えたのはいつだったっけ。ずいぶん牧歌的な時代だったんだな。そう、僕は猛烈に希望を欲している。このブログタイトル。「Searching for the Young Soul Revels」=「若き魂の反逆者を探して」は、僕なりに希望を見つけていこうと思ってつけたタイトルだ。もちろん元ネタはDexys Midnaight Runnersのファーストアルバムだけど。

映画『ヒミズ』のラストはマンガとは違っている。厳密にいえば園監督の解釈が入っている。エンディングで銃声が響いたが、住田は生きていた。住田を殺さなかった。自殺なんかしていなかった。死なせてくれなかった。ひょっとしたら1年前なら殺していたかもしれない。でも、もうそれは時代遅れの表現だ。今は希望を描きたかったんだろう。「がんばれ!がんばれ住田!」という最後の絶叫と、顔をくしゃくしゃにして走る姿は、陳腐でベタでそっちこそ時代遅れな気がするかもしれない。でも僕にはまったくそう聞こえなかった。希望だ。と素直に思えた。

 

個人的な話になるが、この数年、僕自身もとても辛い経験をした。絶望を知った。病気になり、働けなくなり、離婚をし、息子と離れて暮らし、生ける屍と化していた。 いつ死んでもいいと思っていた。3.11。ぐらぐら揺れるなかで、しかし僕は「死にたくない」と思って逃げた。なんでだろう。この1年近くずっと考えていた。

映画のスクリーンから「がんばれ!」という絶叫が響く。その陳腐な言葉が色々な人の声で脳内再生されていた。直接言われなくても、そう思ってくれた人が僕にはいた。そのことを改めて思い出していた。陳腐でも希望を携えた言葉・思いが僕を生かす。住田と一緒にこれからの世界を生きてみたい。

 

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